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わたしが最後に買った漫画は、レイスイーパーみたいです。あれ、完結したんでしょうかね。公式サイトで見ても、更新されないんですけど…もしかして、もう終わってる…?それなら、ファンとして買わなければなりません!
花屋の番人も、2巻まで読み返したら、続きが無性に読みたくて、調べてみたら4巻まで発売しているとのことで、地元の古本屋をはしごして、それでもないから池袋まで自転車で走っていきました(笑)
乙女ロードに行けば、大抵の古本は手に入るんです(笑)

そんなこんなで、カモン、続き!!
2巻の終わりの辺りで、ほんわかのほほんな展開が激変しました。そして、ティティが連れ去られるという。そして、設定は日本っぽいですが、メインキャラたちはドイツっぽいんですよ、池田乾。なんでなんでしょうね(笑)
4人の父親たちの誰もかれもを愛しているので、もうどうでもいいんですけれどねっ!てゆーか、あんな父親がそろい踏みしてたら、毎日、もだえて仕事どころではないと思う。キュンキュンしていそうです。愛してるわ、親父ーズ!
3、4巻はシリアスまっしぐらで、父親たちとの絡みがありません。絡みがあったら、絶対にこんなシリアスにはならないと思うんですよ。だって、ほら、クライブが先手を打ち、リヒトが制し、ヒューがのっそりと愛の言葉攻めを繰り出し、レンが落ちをつけると思うんです。
だから、この2冊がどれだけ寂しかったか…!
同時に、ティティがいないだけで、父親たちがオロオロしていて、とても楽しい。クライブはきっと、ティティに傷つけられても、傷つけられないのだろうし、それはほかの3人にしても同じなのでしょう。愛ですねー、ツネッテさん!


さて、ここでいくつかの伏線が暴かれようとしていますね。
ゲートとは何か、番人とは何か、ティティとは何か。
ゲートと番人は対であり、番人はゲートを守っているわけではなく、ゲートであった自分にとっての愛しい人を守り続けているのですね。ファースト・ゲートのジェイが『私の門』と言ったのは、同時に『私の大事な人』という意味であると思うと、にっこりしますね。
とりあえず、門が呼ぶというのも、これでうなずけます。なるほど、彼らは門と共にあるのです。

それから、オヤジ4人が国を焼き払うことでティティが番人として目覚めるかもしれないといったのは、ゲートが『人柱』的なものだからですね、きっと。もし、国を焼き払い、ティティの対である門を死なせて、番人にさせることが怖かったのですね。
父親というのは、いつでも純真なのですね!
とはいえ、結局、ティティは番人ではありませんでしたが、あの力は、『門』であるからなのでしょう。けれども、番人のいないゲートは成立するのでしょうか?ティティは死んだら、必ずゲートになってしまうのかしら?

謎は尽きないのですが、なんとここで連載休止です!休止!
作者は続きを書くと言っていますが、そういったまま何年も何年も待っているものが多すぎて、わたしはもう信じられなくなりつつあります。
いっそ、同人誌でいいから完結させて…!どこまでも、追いかけていくから・・・・!(ファン魂)



久しぶりに、目から鱗という体験をしました。本当に久々です。ひとつの事項を、角度を変えてみるべきだということは、常々思っていましたが、これはわたしの範疇外でした。なるほど!
これは、ただ、『自殺』をするくらいなら、『引きこもれ』とただ言っているわけではないのです。
無理をして登校する必要などないのだと、はじめて思いました。それ以前にも、自殺という恐ろしい選択を出来るなら、逃亡という安易な選択をなぜ出来ないのかとは思っていました。
けれど、そういうことではない視点でした。

元々、学校教育というのが新しいほうのシステムだというのも、コレを読んで思いました。寺子屋とかがあったので、昔からあったように思いましたが、こういう制度になったのは明治時代以降。いわゆる、産業革命後の話なのだそうですね。
体系として存在し始めたのが近代ということです。なるほど、確かに、新しい分類です。
さらに、学校に行かねばならない。と人が思い始めたのは、明治時代中期以降。それ以前は、学校なんぞに行っている時間などないというか、この場合は、経済的に学校なんぞで時間をつぶしている時間はないということだったのでしょうね。
貧困がはびこると、人は知識を欲しても、それを悠々自適に授受できないということです。一方で、強く求めるので、知識を貪欲に吸収するということでもあるわけですね。

それはさておき、日本の法律を見ると、義務教育を受ける権利というのがありますよね。懐かしいですね。わたしは民法にはまって読んでいるので、最近見覚えのある単語です。
そこには、親が子供に『教育を受けさせる義務』はあっても、子供が『教育を受けなくてはならない義務』は存在しないのです。ここでひとつ、不登校は罪ではないのだと思いました。言われて見ればそうですね。
また、多様化する社会の中、子供の教育方式だけが旧態依然としている必要もないのですよね。学校を休んでも、勉強は出来ます。勉強をするのは、なにも学校ではなくても良いのです。
目から鱗でした。

さらに、学校というのは協調性を養いコミュニケーション能力を向上させるためにも重要な場所だと思いますが、同時に、それは社会人としても必要なことです。
狭い空間に、複数人、最大で50人近い人を詰め込んで、長時間机に向かい、他人と同じ行動を文句もいわずに行えること。
著書の中で、『サラリーマンを養成している』を書かれていました。
知らず知らずのうちに、子供は社会に飼い馴らされていくわけですね。社会が望む人材を、学校というシステムは効率よく大量生産できるのです。
目から鱗の二つ目です。

この二つで、ああ、そっか。と違う視点が開けました。
個人主義に走れというわけではないですが、こういうことに何の疑問も抱かなくなってしまったら、それは飼い馴らされてしまうことなのだと思いました。
わたし自身が、わたしの主体であるためには、慣例にただ従い続けるだけではダメなのですね。

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